歴史

本記事の内容はすべてフィクションです。実在の人物・地域・団体等とは一切関係ありません。


有間電鉄は1916年7月に設立された有間軽便鉄道を前身とする私鉄である。

日本三古湯に数えられる名湯として、また湯山街道が通る交通の要衝としても栄えた有間では明治時代より鉄道を建設する動きが見られた。しかし当時は旅館での長期滞在を前提とした湯治利用が大半で、現代のような物見遊山に温泉地へ出掛けるスタイルはほど遠いものであった。そのため宿泊客減少を懸念した一部の旅館主たちの鉄道に対する抵抗感は強く、数多く生まれた鉄道建設計画の中には一部の地域住民の反対によって頓挫したものもあったと言われている。

1910年代に入ると箕面有間電気軌道が梅田より宝塚まで開通し、鄙びた温泉地であった宝塚は新たな温泉施設や宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)の活躍により訪問客が大幅に増加した。お隣の温泉地である宝塚の飛躍的な発展を目の当たりにした有間の有志たちは、鉄道建設による移動手段の改善のみならず新たな利用形態に対応できる温泉街への刷新をなくして有間の発展はないことを確信。有間への鉄道建設を主題としながらも、昼間は日帰り客、夜は宿泊客で賑わう有間温泉街を理想像として説く小冊子を作成した有志たちは、これを有間温泉の旅館や商店、名家、時には代議士や資本家といった有力者にも配布して回った。その情熱と根気強さに感銘を受けた人々の間で鉄道建設の気運が高まり、1915年3月には有間軽便鉄道発起人生野良寛(後の有間軽便鉄道初代社長)ほか15名に対して内閣総理大臣大隈重信より鉄道免許状が下付された。建設費の抑制を目的に軽量かつ幅狭なレールと小型の車両を用いる鉄道として申請した有間軽便鉄道であるが、軌間は国有鉄道と同じ1067mm(狭軌)とされた。1916年7月、有間軽便鉄道株式会社が設立した。

その後の敷設工事は特に問題なく進められ、1917年4月8日に三田~有間間が開業した。

 

開業当初の有間軽便鉄道は三田駅・塩田駅・新道場駅・山口駅・有間駅の5駅で旅客・貨物営業を行っており、沿線地域は有間郡(当時)の中心部である三田への移動はもちろん農産物や工芸品の出荷等で鉄道の恩恵を与っていた。中でも新道場駅と山口駅は農業組合の倉庫や運送会社の営業所が隣接する大規模な駅で、広い構内には機関車や客車・貨車を留置する側線や車庫を備えた。秋になると採れたての農産物を満載した貨車が何両も連なって走っていたと言う。一方で有間温泉には日帰りもしくは1泊程度の観光客が押し寄せ、長年通ってきた湯治客と物見遊山にやって来た観光客で急激な混雑に悩まされることとなった。町営外湯(当時は宿泊客のみ利用できる内湯を備えた旅館は皆無であった)では多客に対応するため長々と浸かる湯治客を追い出すこともあり、鉄道開業後の理想像とされた「昼は日帰り客・夜は宿泊客で賑わう有間温泉」からは到底程遠い現実となっていた。鉄道開業によって観光客が押し寄せる状況など有間温泉の旅館・商店主たちにとっては経験の無いことであり、為す術を持たなかったことが厳しい結果を招くことになったのである。

 

1918年5月5日には有間軽便鉄道から有間鉄道に社名を改め、目標を有間温泉の再興と路線の電化に設定した。まず取り組んだのは有間温泉から遠のいた客足を呼び戻すことで、有間駅から程近い場所に有間鉄道直営の外湯施設を開業した。施設の入浴券は有間鉄道の各駅と列車内で購入可能とし、観光客を町営外湯から鉄道直営の外湯施設に誘導する仕組みづくりを行った。有間温泉の旅館でも内湯を新設する動きが始まり、徐々にではあるが観光客が増加していった。

このような有間温泉の再興と並行して有間鉄道の電化計画も進められた。山口駅から有間駅の間に存在する急勾配区間(30パーミル前後)が蒸気機関車にとっては難所であり、登坂能力が高い電車の導入が求められていた。有間鉄道は大阪に本社を置く日本電力株式会社と電力供給に関する契約を結び、さらに電化工事を日本電力の子会社が請け負うことを条件に工事費用の一部を日本電力に負担してもらうことにした。電車は日本車輌製造本店(名古屋)でデ100形・デニ200形を製造し、確かな登坂能力と従来の客車より収容力を高めた大型車体で電化開業に備えた。

1928年10月7日から電車の営業運転が始まり、翌年には全列車が蒸気機関車から電車による運転へと切り替えられた。デ100形は当時国鉄の特急列車ぐらいにしか備えていなかった転換腰掛を採用し、デニ200形は車内の一部に設けた荷物室を用いて宿泊客の手荷物を駅から旅館まで輸送するサービスを実施するなどして話題を呼んだ。同時期には有間と神戸を結ぶ神戸電気鉄道(神鉄)が開業しており直通運転も計画されたものの、両社間での折り合いがつかず断念。有間温泉には有間川を挟んで駅が2つ存在することとなり、煙の出ない電化路線であることから温泉街に近い場所に駅が設置された(有間鉄道は電化に合わせて有間駅を太古橋近くに移設した)。

こうした取り組みが功を奏したのか有間温泉には客足が戻り、1930年代には昼夜を分かたず賑わう有間温泉が現実となった。1929年4月1日に有間鉄道から社名を改めた有間電気鉄道(有電)はさらなる利用客増加に対応すべく1932年に輸送力増強計画を立案、列車交換設備を備えた新駅の設置や一部区間の複線化などを盛り込んだ。戦時体制の影響によって計画は中止されるも、戦後の沿線開発に伴い行われた輸送改善では本計画を踏襲した部分も多い。

 

戦後の日本では朝鮮戦争特需や民間消費及び設備投資の拡大などによって急速に経済が復興した。終戦から有間温泉には徐々に客足が戻り、有電も緩やかではあるものの利用客が増加する。長引く戦争で満足に整備ができなかったため車両は故障が相次いでいたが、順次修繕を受けて元の走りを取り戻した。ただし車両新製や駅の改修など大規模な設備投資をする体力はまだついておらず、デ100形・デニ200形の走行機器を流用して車体のみ新製とした300形を1958年から投入した。乗り心地や走行音は旧型電車と同じであるものの、沿線の人々には有間の金湯をイメージしたオレンジ色の車体が鮮烈に映ったという。この車両から使われ始めたオレンジ色は使用箇所や色味を変えながらも有電の伝統色として後継車両に受け継がれている。

1964年に開催された東京オリンピックは終戦から急速な復活を遂げた日本にとって、国際社会への復帰はもとより高度経済成長という時代を象徴するイベントであった。オリンピックに前後して新幹線、高速道路など大都市間を結ぶ高速交通網が整備されるとともに、一般家庭においても家庭用電化製品や自家用車の普及が進んだ。有間温泉への観光客も自動車専用道路の整備によって自家用車や観光バスに移行したことから、有電は多くの利用者を自動車に奪い取られる形となった。鉄道を利用し続けてもらうためには設備の近代化が不可欠と考えた有電は1963年より戦後初の完全新造車である500形を投入した。300形と同じ車体であるためインパクトには欠けるものの、車内はグループ旅行での利用を想定してボックスシートを配置するなど意欲的な設計が見られた。

経済復興期から高度経済成長期にかけて発生した大都市圏での労働力需要に応えるべく、地方から多くの若者たちが大都市圏へ移り住んだ。「金の卵」と称された彼らが家庭を持つ頃に大量の住宅需要が発生し、民間による乱開発が進められ中には無計画かつ違法な宅地開発も存在した。良好な居住環境を持つ宅地を大量に供給するため、住宅・学校・公共施設などを計画的に配置した新しい都市(ニュータウン)を公的機関の主導で建設する動きが広まった。有電の走る有間市には阪神間で飽和状態にあった人口と産業の新たな集積地として「北摂有間ニュータウン」の開発が決定。総面積2,000haにも及ぶ開発計画区域内を走る有電はニュータウンに居住する就業・就学者の大量輸送機関として、三田駅で接続する国鉄福知山線と連携した抜本的な輸送力強化が急務となる。

 

モータリゼーションの進行によって利用者数が激減した有電はニュータウン鉄道への活路を見出すようになる。1970年3月に発表された「北摂有間ニュータウン基本計画」では国鉄福知山線はニュータウンの中心とされる山口地区を通り、有電は新たに設置される山口駅で国鉄と連絡する計画であった。しかし本計画では既存の三田駅を移転することとなっており、既存市街地である三田地区を中心に三田駅存置と周辺の再開発を求める運動が加熱した。そこで1973年に兵庫県は山口駅から三田駅間の有間電鉄線を国鉄線の新ルートに転用するあっせん案を有間市に説明するが、自社路線の一部廃止を意味する計画案に有電は猛反発。これとは別に山口駅から新線を分岐させて有間温泉東側に新設する新有間駅から六甲山地を貫いて神戸市街地に至る「神有新線」も計画されており、仮に両方の計画が実現すれば有電は2つの新線に代替されて廃線となる可能性もあった。有電は自社線の路盤を売却する場合は従業員全員を国鉄等同業他社に採用させることを条件としていたが、1977年に兵庫県は国鉄線のニュータウン地区乗り入れ計画を断念、国鉄に対して在来区間の複線化を急ぐように申し入れた。神有新線は六甲山地を貫く山岳トンネルの建設をめぐって費用対効果が問題視され、こちらも1970年代後半には断念されている。

北摂有間ニュータウンに関する鉄道計画に翻弄され続けた結果、有電はニュータウン地区内の輸送を一手に担うことになった。1971年に新製投入した600形は有電初の3ドア構造・冷房装置搭載車で、有電における通勤型車両の方向性を示すものとなった。1982年には複線化・1500Vへの昇圧・新型車両投入・新駅設置・軌道改良を盛り込んだ「有間電気鉄道総合革新計画」を発表し、ニュータウンの足に相応しい輸送サービス体制の構築を図った。全線において線路の重軌条化とホームの増設が行われ、1986年11月1日には架線電圧を600Vから1500Vに昇圧した。この改良で従来より大型の車両で組成した列車を高頻度に運転することが可能になり、昇圧から間もなく新型車両700形の試運転が開始された。700形は有電初の20m級・VVVFインバータ制御車両として設計されたほか、国鉄(1987年4月よりJR西日本)福知山線宝塚・大阪方面への直通運転が社内で計画されていたことから列車無線アンテナの取り付け台座や保安装置の切り替えスイッチなどが備えられた。

1988年4月から8月にかけて開催された21世紀田園都市博覧会「ホロンピア’88」ではJR西日本113系・115系が会場アクセス列車「シャトル・ホロンピア」として有電の山口駅まで乗り入れた。この時有電700形も同列車に充当されたことから大阪駅及び宮原操車場まで入線し、念願だったJR福知山線への直通運転を実現している。

 

有電・JRの直通運転は北摂有間ニュータウンと大阪都心を直結する通勤列車にとどまらず、裏六甲に位置する関西の奥座敷・有間温泉にアクセスするレジャー列車としても需要が見込まれた。博覧会の終了と同時に「シャトル・ホロンピア」はその役目を終えるが、1989年3月11日のダイヤ改正では新大阪駅と有間温泉駅を結ぶ直通快速列車(平日は大阪駅~山口駅間のみ運転)が設定され、有間地域の日常生活と観光振興において重要な列車となった。しかし1991年5月14日に発生した信楽高原鐵道列車衝突事故以降、JRの乗務員が有電有間温泉駅までそのまま乗務していることが世間から問題視されるようになり、JR西日本からの申し入れもあって直通運転は無期限で休止された。

1970年代から開発が進められた北摂有間ニュータウンは1980年代から1990年代にかけて各街区で街開きが行われ、有間市の人口は1987年から10年連続で日本一の人口増加率を記録するほどにまで増加した。日を追うごとに増えていく利用者に対応するべく有電はダイヤを改めて運転本数の増加を行うとともに、1993年には4ドア車両である800形を投入。乗降性に難のあった500形(2ドア車両)を置き換え、半自動ドア機構やLED式車内案内表示装置などの新機軸を導入し旅客サービスの向上を図った。

 

700形登場当初に制作されたパンフレット。

「ニューフロンティアシティを支える確かな足」、「20万都市の夢を担うトレンディ・シャトル」など横文字を用いたキャッチーが時代を感じさせる。エクステリア・インテリアの紹介や機器の主要諸元に加え、ミリ単位の寸法まで記した車両形式図を掲載している。

 

800形では有電初の4ドア車両であることから「カルテット800」(Quartet=四人組・四重奏)の愛称が与えられた。本車両で採用されたバケットシート、フットラインの紹介が大きく目立つことから当時の混雑事情が窺い知れる。この頃、有電は社名を電気鉄道を略語とした

「有間電鉄」に改めている。

 

 


1995年1月17日5時46分、兵庫県南部を震源に地震が発生。日本で初めて大都市直下を震源とする大地震は「阪神・淡路大震災」と命名され、兵庫県南部を中心に未曾有の被害をもたらした。有電においても有間温泉駅の損壊や線路への土砂流入などの被害が生じるも、昼夜問わずの突貫工事により発生後わずか4日後に三田~峠堂(有間温泉駅より600m手前、旧峠堂駅の用地を活用して仮設)間で運転を再開。一部区間で代行バスを挟みながらも大阪と神戸を結ぶ迂回ルートが完成し、有電は約5ヶ月間に渡って開業以来の大混雑に見舞われた。阪神間の各鉄道路線が復旧した後は全面復旧に注力し、1997年11月には有間温泉駅が2代目駅舎の完成に伴い2年10ヶ月ぶりに営業を再開した。1999年4月には有電初の高架駅である上山口駅が開業し、1991年以来休止されていたJR福知山線との直通運転も再開された(三田駅で必ず乗務員交代を行う)。北摂有間ニュータウン計画の発表から約30年を経て、有電はニュータウン輸送を担う都市近郊鉄道へと脱皮した。

 

10万人以上が住まう北摂有間ニュータウンの日常生活を支える有電だが、有間温泉とその背後にそびえる六甲山への観光輸送という本来の役割を失った訳では無い。長引く景気低迷や震災の影響で観光客数が大きく落ち込んだ有間温泉は、老舗旅館のリノベーションや景観に考慮した街並みづくりなどの取り組みが功を奏し「関西の奥座敷」に相応しい活気あふれる温泉街を取り戻した。2007年には新道場駅近くにアウトレットモールが開業、業績好調による増築が続き現在では西日本最大規模のアウトレットモールとして有電沿線において有間温泉に次ぐ観光スポットとなっている。

こうした観光輸送需要の高まりを受け、有電はJR線に乗り入れる直通快速の増発(土休日4往復→6往復運転)と自社線での通過運転を実施した。加えて2016年には22年ぶりとなる新型車両100形を導入。近郊・行楽乗車の両立を目的に一部区画で転換式クロスシートを採用し、インバウンド(訪日外国人旅行)利用をターゲットにした車内公衆無線LANサービスを実施するなど、時流変化に適応した設備を持つ車両となった。

今後は直通運転先であるJRに追随して列車無線のデジタル化を行う予定である。