明けの日


上山口駅のホームに設けられた時計は午前8時50分を指している。

有間温泉は狭い道路や歩行者の安全確保を理由に自家用車や観光バスの乗り入れを禁止しており、今日のような日曜日は駅前の観光駐車場が満車となる。だが観光客の入れ替わる時間としてはまだ早く、駅には子供連れの母親やシルバーカーを押すお年寄りなど地元客の利用が目立つ。ホームの後端に近い場所から乗客を注視するうちに、乗務する有間温泉行きの列車がホームに滑り込んできた。

「行先よし、パンタよし。行先よし……パンタよし!」

3両編成ある列車の最後尾が視界に収まると、続いて行先表示と列車の最後尾を示す赤色の尾灯を指差して「行先よし、後部標識よし」と声に出して確認喚呼する。ここまで乗務してきた車掌から引き継ぎを受け、種々の確認と運転士との打ち合わせを行う。これらの作業と発車時刻、列車の前後とホームの安全を全て確認すると「時機よし」と喚呼した後にドアを閉め、運転士へブザー合図を送って発車ができる。

 

「次は中野に停まります」

三田駅から複線であった本線は上山口駅から単線となる。長短種々のレールが複数本組み合わさる分岐器を通過してから車内放送を行う間、列車は快調な速度で山間を駆け抜けて行く。沿線のニュータウン開発区域を外れたこの辺りは豊かな自然が残り、集落からも離れた木々の間を縫って走る様子はさながら森林鉄道である。僕は風光明媚な有電を形成する一つの区間として気に入っているが、運転士の視点からだとそうでも無いらしく、時期によっては大量発生した毛虫を轢くと車輪が空転して最悪勾配を登れなくなると言う。一見すると美しい自然も、恩恵と脅威が表裏一体の存在であるのだ。

「失礼します」

列車運行図表や車内補充券、現金の入ったがま口の車掌用カバンを肩に掛けて客室内を歩く。次の中野駅は出入口が列車の進行方向にあるため、予め運転士のいる前方の乗務員室へ移動しておき到着後に下車客の持っていた切符を回収しなければならない。僕は放送を終えてすぐに客室へと入り、列車の動揺で足を踏み外して乗客に当たることの無いように気をつけながらも、乗客や車内の各装置に異常が見受けられないか注意して最前部の乗務員室へと歩を進めて行く。

この車両は乗務員室のすぐ後ろが車いすスペースとなっており、進行方向の右側には座席が無い。そこに居たのは車いすの人でもなく、ベビーカーを押す親でも無く、小学生高学年ぐらいの男女数人であった。現在のところ車いすスペースの利用を促すべき人は乗っていないので、健常者が立っているところで差し支えることは無いが、ただ一点僕の目に気になるところがあった。

一人の少年がつり革で懸垂をしていた。彼を賞賛する周りも楽しそうだが、揺れる電車内では危険な行為であるし、何よりぶら下がった際に足が乗務員室の仕切り部にゴツン、ゴツンと当たっていた。

「何やってんの! ぶら下がるモンと違うで」

注意した途端に少年はつり革から手を放し、僕に一言「すみませんでした」と謝罪した。素直な反面胡散臭くも感じたが、取り巻きの数人を含めて表情に反省の色が認められたので良しとする。列車は既に中野駅を目前として減速を始めており、急いで乗務員室との仕切り扉を解錠した僕は進行方向右側にある放送マイクを手に取った。

「ありがとうございました、中野に到着です」

乗務員室扉の窓を下方向に開け放ち、列車が定位置にピタリと停止したことを指差し確認してからドアを開けた。すると降りてきたのは先ほど注意した懸垂大会の面々である。

「さっきはホントにすみません」

「落ちたら怖いからね、懸垂はそこの公園だけやで」

腹筋ベンチや鉄棒など健康遊具が設置されている公園が中野駅の近くにあるが、彼らはそこで遊ぶつもりでここまで来たのだろう。差し出してきた切符を受け取り、彼らが構内踏切を渡った先に居た別の友達と落ち合ったのを確かめてから再びドアスイッチを操作した。開扉を示す車体側面のランプが全て消灯するのを確かめ、すぐ隣の運転席にいる運転士へ発車合図を送る。

「戸閉、点。合図よし、出発進行、発車」

運転士の操作で列車はブレーキを緩め、終点の有間温泉駅へ向けて滑らかに加速する。

 

「ありがとう、助かったわ」

前方を注視したまま運転士の乙倉さんは僕に礼を言った。上山口駅を発車してすぐに客室から乗務員室に鈍い音が聞こえて少年たちの悪行に気づいたが、運転中であるため注意することが出来なかったと言う。地方私鉄にしては一貫して車掌乗務を残している有電に魅力を感じて入社したが、いざ車掌として仕事をしているとその必要性を感じる機会は予想よりも多い。こちらの都合などお構い無しな乗客からの問い合わせ、切符の回収と発売、そして先ほどのような乗車中に起こるトラブルの対処。ワンマン運転が主流になっても機器に頼り切る事はできず、どこかで人の力を用いてカバーする必要がある。人件費を払ってでも係員を充当するか、合理化を大義名分に何かしらを犠牲にするか、多くの場合は苦渋の選択を強いられることとなる。かつては有電でもワンマン化に向けた機運が高まったものの、運転士の負担増加に対する懸念や、地域の雇用を創出するという社会貢献の観点から現在でも車掌乗務は続けられている。

あの新幹線ですら車掌を削減する方向に動く世の中、こんな小さな鉄道ではワンマン運転を行わない方が不自然なのかもしれない。それでも必要としてくれる人がいて、会社がそれに応えようという姿勢でいるのは社員として誇りに思うし、自分にできるのは日々の乗務に真剣に取り組むことだけだ。

 

有間温泉駅からは三田行きの列車に上山口駅までの乗務となる。旅館での楽しいひと時を終えた人が、手荷物に加えてお土産の袋を提げて次々にやって来る。発車予告放送が終わっても乗車する人は途切れず、すんでのところで乗り遅れる人を哀れんでついドアを何度も開けてしまう。

「もうちょい早く閉めてくれると運転しやすいなあ」

上山口駅で列車を後任の乗務員に引き継いだ後、乙倉さんが開口一番にそう言った。表情は穏やかだが、口調はどこか呆れたような感じだ。各駅停車が殆どで、駅間距離もそう長くない有電で遅れを取り戻すのは決して簡単なことではない。混雑による10秒少しの遅れでも、同じ線路を走る他の列車に影響する。

「すみません……お詫びに何か奢らせて下さい」

うまい言い訳も思いつかず、お金で解決するなと小突かれる覚悟をしたが、乙倉さんは「ホンマに?」と意外な反応をした。コンコースに下る階段が終わりに差し掛かった時、「あそこ!」と有無を言わせない口調で改札外にあるカフェバーを指差したので、退勤後の夕方に待ち合わせる約束をした。 

 

「先輩、よく飲みますね」

バータイムのカフェバーで、乙倉さんは5杯目のハイボールに突入していた。僕はと言えば塩焼きそばとビールを交互に口へ運んでおり、世間話に混じって愚痴を漏らす乙倉さんの聞き手に徹していた。

「明けプラス連休だよ? お酒飲めるのなんて今日か明日しか無いじゃん」

午前中に出勤して夜まで乗務を続け、仮眠を経て翌日の午前中に退勤する勤務を「泊まり」と言う。退勤後の時間を「明け」、一日だけの勤務は「日勤」とされ、これらの勤務と休日の組み合わせから乗務員の生活は成り立っている。今回は2回4日に渡る「泊まり」が明けて、明日と明後日は休みである。

「そう言えばこの前、生野さんがアルコール検査に引っかかって帰されたみたいですね」

「前の晩までワイン飲んでりゃ、引っかからへん方が珍しいわ」

今でこそハイペースな乙倉さんだが、乗務の前日は一切飲酒しないという取り決めをしており、僕もそれに従っている。僕は新道場駅、乙倉さんは有間温泉駅から徒歩で帰宅できるので、上山口駅構内にこの店がオープンしてからは明けの晩や休日に二人で飲むことが多い。

「今後は思い切ってドア扱いしますんで、どうか」

改めて今朝の事を謝罪すると、乙倉さんは「ええよ」と呟いて僅かに残ったハイボールを飲み干した。

「車掌の時、三田駅でお客さんに『乗せろや!』って逆ギレされて、ビビって再開閉しちゃって。列車を遅らせて運転士のオッチャンにも怒られるし、あの時ほど仕事が嫌になったことは無いなあ」

「帰宅ラッシュの三田駅は殺気立ってますからね。15分も待てないんでしょうかね」

今朝のモヤモヤはお酒と愚痴ですっかり埋まって、気づけば閉店の一時間前になっていた。

 

店を出ると上下方面の列車が発車したところで、次に来る列車の発車時刻をLED発車標で確認する。

「次の有間温泉行き、30分後ですね……」

「えー!!」

データイム、夕ラッシュ時間帯で続いた15分間隔での運行が終了し、利用の少ない有間温泉方面は列車が少なくなる。僕は15分後に来る三田行きに乗れば新道場駅に戻ることができるが、半ば酩酊状態にある乙倉さんを一人にするのも心配だったので、列車を1本見送ることにした。

「15分は待てるけど、30分か。今なら駆け込む人の気持ちが……」

「分かっちゃダメですよ、分かりたくても」

 

僕たちの酔いを醒ますように、冬の夜風が高架上のホームを吹き抜ける。