朝二番列車


電波時計の滑らかに動く針が午前4時を指して、少し経った頃。
第二仮眠室にある二段ベッドの下段を脱した若い女性は、洗顔と更衣を手際良く済ませて備え付けの化粧台でナチュラルメイクを施していた。寝具を綺麗に整え、室内に忘れ物が無いかを確認すると、おもむろに女性専用の仮眠室を後にした。電子錠は使用者であった彼女の退室を見届けたかのように、ひとりでに仮眠室を施錠した。次の使用者がテンキーを操るまでは一切入室できない。
真冬のこの時間、暁には程遠い闇夜は終電の乗務後と変わらない。
昨日の日没から温かみのある電灯が煌々と灯っていた有間の温泉街は、どこを見回しても静寂そのもので、時々建物の裏手辺りから白い煙が上がる光景が見られる程度だ。それが宿泊客に提供する朝食の下拵えであることは、この地で小さな旅館を営む両親を持つ彼女が一番理解している。

駅事務室。お客にはそう案内しているが、私、乙倉かえでを始めとする有間電鉄の職員たちは、駅務室、駅長室、会議室、仮眠室など様々な部屋に出入りする。泊まり勤務の終盤戦である初列車乗務に向け、私は駅務室の奥にある乗務員休憩所へ足を運んだ。休憩所とは名ばかりのもので、猫の額ほどの小さなスペースにテーブルとミーティングチェアを置いただけの簡素な空間。キズや破れが生じてもなかなか取り替えられないボロい椅子とテーブルでも、私たち乗務員たちにとっては貴重な息抜きのスペースである。もっとも、なぜかドアが撤去された出入口からは点呼を行うカウンターが丸見えで、仕事仲間と流行りの話題で盛り上がることもままならないのだが。
「先輩、おはようございます」
椅子に掛ける私の元へやって来たのは、車掌の船坂和悠だ。乗務所において一期下の後輩であるが、年齢は1つしか変わらないので実質同級生のレベルだ。一緒に乗務することも多く、会話は自然と多くなる。
「おはよう。早よ点呼済ましてゆっくりしよか」
数歩先の点呼場にて、当直である乗務助役を前に「出勤点呼」を行う。
「第102行路運転士、乙倉、出勤しました。心身ともに異常ありません」
「第102行路車掌、船坂、出勤しました。心身の異常はありません」
運行図表と呼ばれる業務用時刻表と、一日の乗務列車などが掲載された行路表を点呼台に置いた。アルコール反応検査の後、行路表を指差しながら乗務する列車の番号、出発時刻、車両型式と編成両数、さらに線区の速度制限などを確認し、時報に合わせて時計の整合を実施する。
「それでは点呼を終わります。寒い中ですが、気を抜かずに!」
点呼終了の宣言を受け、私はスタフと呼ばれる時刻表の束とマスコンキー、船坂は現金や車内補充券などが入った車掌カバンを受け取った。十分に暖房の効いた駅務室を出て、乗務する電車が留め置かれている2番線に向かって歩み出した。

昨夜終電として乗務した700形第3編成は、この日において三田方面へと向かう二番列車となる。

既に客室内が暖房の温もりに包まれる一番列車とは対照的な、まだ電源すら入っていない700形の前輪に噛ませていた手歯止めを抜き取った私は、忍び錠を回して運転機器の並ぶ乗務員室に入った。
電車の集電装置であるパンタグラフをボタン操作で上昇させ、乗務員室ドアの窓からそれが架線に接触していることを身を乗り出して確認する。前照灯と赤色の尾灯を両方点け、ドアスイッチの上にある電鈴を何度か打ち鳴らす。刹那、車内電話の受話器を取る。
「始業検査始めます。後部確認、よろしく」
「了解」
運用の都合上、このように電車を駅に「泊まらせる」ことがあるので、客扱いする前は車庫と同様に動作するか確認作業を行う。電車を少しだけ前後に動かしたり、行先表示器やドアの動作、客室照明がきちんと灯るかなどを実際に操作して確認する。これが終わるとようやく乗客が乗車できる状態となる。
再度、「電話に掛かれ」と合図するベルが鳴動した。今度は車掌からだ。
「すいません先輩。俺ちょっと手洗いに行くんで、放送お願いできますか」
「了解。あと、コーヒー買ってきて」
列車を一旦降りる船坂に代わり、私が出発前の肉声放送を行うことになった。有電に在籍する全ての編成には「自動放送装置」が備わっており、案内放送は既に自動化されているのだが、指導係のベテラン職員からは「始発駅とか交換駅とか、必要に応じて自分の声で案内すること」と教えられる。
これもまたマイクやスピーカーの動作確認をする手段であるらしいが、公共の乗り物において乗務員が肉声で案内を行うことに乗客へ「安心感」を与えるのではないかと私は解釈している。マイクを手に取り、乗務員室と客室の仕切り扉を開けてから、すっと息を吸って放送を始めた。
「皆様おはようございます。今日も有間電鉄をご利用いただきありがとうございます。この電車は5時25分発の三田行きでございます。有間市に5時30分、新道場に5時38分、終点の三田には5時44分に到着いたします。発車まで約5分ほど、お待ちください」
我ながら完璧な「おはよう放送」だと確信した。しかし車内にいる乗客の何人かがクエスチョンマークを頭の中に浮かべた顔をしており、列車の外でも同じような顔をした人が居た。
(どこか間違えたかな……?)

不審に思い自分の発言とスタフに記された時刻を照合するが、到着時刻に間違いは無い。言葉遣いも特に問題は無かったと思う。疑問に思っていたところに船坂が自分の前まで駆け寄る。
「先輩、放送が外だけになってますよ」
慌てて放送装置を注目すると、出力ツマミが「車外」の位置にあった。放送は出力ツマミで車内・車外・両方に設定できるが、以前に操った職員が「車外」のままにして列車を降りたようだ。
「うあああ……」

運転士という役割から案内放送を行う機会は車掌に比べて圧倒的に少ない中、このケアレスミスは恥ずかしい。含み笑いをする船坂を見ると、余計に顔が火照ってくる。
「マイク取る時にツマミ見えなかったんですか?」
「まさか定位がズレてるとは思わへんもん。私はいいから、戻って、戻って!」
お互いに苦笑を交え、三田到着後にお金を払うことを約束して船坂から缶コーヒーを受け取った。

 

「2番線から、三田行きが発車いたします。ドアを閉めます、ご注意ください」
発車を告げる駅の自動放送が流れ、船坂は「乗降終了、ドア閉!」の喚呼と共にドアを閉めた。確実にドアが閉まったこと、周囲が安全な状況であることを指差し確認して、私は乗務員室ドアの窓を上昇して閉めた。車掌側から出発を要請する合図ベルが鳴らされ、前方を注視する。
「出発進行。逆転ハンドル、前。ATSヨシ、合図ヨシ、発車!」
T字形の大きなマスコンハンドルを手前に引いて、ノッチを投入する。この操作で電車は「ヴゥーン、ウウーン……」と独特な音を奏でながら起動し、徐々にスピードを増す。
「有間温泉、発車定時!」
分岐器とカーブを車輪をキシキシと軋ませながら通過した後、一旦ニュートラルの位置にしていたマスコンを再度ノッチの方向に倒し、本格的に加速を開始した。次の駅は、中野駅である。

 

 

 

(2016年2月20日 記)