雨時々曇りのち晴れ


「今日は全国的に曇りや雨の天気となっています……兵庫県南部は未明から雨が降り続いていますが、お昼ごろには止むでしょう。北部は……」
梅雨前線が日本列島を行き来する季節になり、今日は暦の上で夏の中間とされる夏至の日。しかし空模様からは夏の盛りなどは一切感じられず、ただ降り頻る雨粒と湿気の高い環境下では不快指数が高まり続けるばかりだ。冷房の効いた電車の座席でスマートフォンから流れるラジオを聴いていると、これまで上昇の一途を辿っていた不快指数が瓶の栓を抜いたように下降していく。
「まもなく、新道場、新道場です。出口は左側です」
イヤホンを装着していても聞き取れる女声の自動放送だが、耳に入る直前にはイヤホンを木製の糸巻きに巻きつけてカバンに収納した。午前7時26分、列車は定刻通り新道場駅に到着した。

陽光の届かない梅雨空の下、乙倉かえではこの日の勤務開始場所である有間運輸所道場分所に向けて歩を進める。かつてはこの分所こそ有間電鉄の乗務員が出退勤の点呼を行う有間乗務所であったが、10年以上前に有間市駅が高架化されたのを機にそちらへ移転した。新道場駅から徒歩約10分ほどの場所にある道場車庫に車両が集うのは相変わらずで、車庫から電車を引き出して運用を始める際は担当する乗務員が車庫の管理棟にある道場分所へ赴き、乗務所とのテレビ電話で点呼を行ってから仕業検査に入る。開け放たれた門扉を通過し、管理棟の奥まったところにある真新しい女子更衣室へと入る。私服から制服に着替え、手袋を嵌めて丸い女子用制帽を持つといよいよ仕事モードだ。

「……それでは本日も無事故でお願いします。点呼終わり」
「運転士、乙倉、本日も安全運行に努めてまいります」
「車掌、船坂、安全運行と快適な車内環境づくりに努めます」
相方となる船坂車掌と一緒に、適当な意気込みを表明して運輸所とのテレビ通話を終了した。
分所を出て複数本ある留置線を一本ずつ指差し確認しながら渡ると、乗務する600形電車がある。
有間電鉄では最古参となる1971年製造の電車は、入念な手入れによって製造から40年が経過した現在も元気に営業運転を続けている。しかし間近に見ると所所の塗装は剥がれ落ち、劣化は否めない。最新車両の100形電車によって置き換えられる方針で、こうして乗務できるのも数年限りだ。
腰に提げていた「忍錠」で乗務員室ドアを解錠し、先にそこそこ重い乗務カバンを乗務員室の床に上げてから自分がステップと手すりを頼りに入室した。「忍錠(しのびじょう)」は乗務員室ドアから機器のフタまで車両の至る所に通じる鍵で、さしずめ電車のマスターキーといったところだ。所定の手順どおりに発車準備を進めていると、船坂車掌から車内電話がかかってきた。
「はい乙倉。打ち合わせ?」
「いえ、行先幕が白いままで『回送』表示や無いんですよ」
「回送やから白幕でもええやろ。何なら手回しする?」
「手回し用のハンドルって道具箱の中ですよね。この車両、道具箱ってどこでしたっけ?」
「600は道具箱やなくて防護用具箱。車掌台に赤テープで囲った引き出しが……」
「ありがとうございます!」
この船坂という車掌、仕事に対する意欲は私よりずっと高い良き後輩なのだが、神経質である割には基礎知識を失念するなど危うい場面も多々見受けられる。ただし明朗快活を地で行くような性格から憎めない存在でもあり、私を含めて皆から好かれるタイプの人間だ。お客様への対応も模範的で、忘れっぽいところを除けば車掌としては一流だろう。

道場車庫を出庫した第981K回送電車は、新道場駅で折り返してから客扱い開始駅である有間温泉駅まで向かう。この間は客扱い、すなわち乗客の利用は無いため車内照明は消灯しているが、空調は既に作動させている。始発駅から利用する旅客に快適な車内環境を提供するための措置である。有間温泉駅で客室の照明を点け、ドアを開扉して客扱いを始める。ここからは通常の旅客列車として有間と三田の間を往復し続ける。午後12時15分50秒、有間温泉から3往復目に差し掛かかる600形電車は第1202列車の三田行きとして新道場駅の一駅手前、日下部(くさかべ)駅に到着した。その前の二郎駅に続き、無人駅であるため乗降は手短に済ませるべきところだ。

「日下部、停車定時。客扱い2種」
スタフの駅名と発着時刻の間には、「客扱種別」が記載されている。1種であれば車掌、もしくはホームに立哨する駅員が切符の回収(集札)を行うが、2種の場合は運転士もこの集札という作業を行わなければならない。ブレーキを強めに込めて、運転席から立ち上がって乗務員室のドアを開けた時だった。一人の中年らしき女性が、私に駆け寄ってきた。
「ちょっとどういうことなん? 中めっちゃ寒かったやないの!!」
単に切符を差し出そうとこちらへ来た訳では無いのが、その剣幕から読み取れた。それでも実際に苦情を訴えられると、やはり戸惑ってしまう。とりあえず、旅客対応マニュアルを思い出しながら返答を行う。

「申し訳ありません。電車内の温度は規則で26度に設定しておりまして……」
有間電鉄は編成両数が2両と3両のみで、3両編成なら1両でも設定すればいいのだが、2両編成だと設定が難しいことや、サービスの均質化の観点から一律して弱冷房車の設定は無い。マニュアルでは冷房温度は26度、暖房温度は22度と規定されているが、当然その温度がすべての乗客に納得される訳は無い。はっきり言って「個人差」なので、仕方のないところでもあるのが実情だ。
「この雨で陽も届かないのに、それじゃ寒すぎるやろ!?」
「お気持ちは分かります。快適に過ごしていただけず、申し訳ございません」
「謝ってるんなら誠意を見せなさいよ! それともアンタ、悪いと思ってないのに謝ってるの? 余計におかしいやんか!!」
じゃあ、どうすりゃええねん。喉まで出かけた本音を咄嗟に打ち消し、一瞬だけ左手首の手前に着けた腕時計に目をやる。午前12時16分34秒、既に所定の発車時刻は過ぎている。日下部から先ですれ違うはずの有間温泉行き電車が日下部駅のすぐ先に見える。このままでは他の列車にまで遅れが波及してしまうことを思うと、次第に焦りを隠せなくなってきた。そのとき、異常を察したのか船坂車掌が私と女性の元へと駆け寄って来た。彼も私と同じ心配をしているようで、やはり焦り気味だ。
「どうされましたか!?」

船坂は真っ先に女性の方を向いて切り出した。女性はその剣幕を変えることなく、今しがた私に申し立てた内容を復唱するかのように船坂へ訴え、その上私の対応がなってないという新たな苦情を付け加えた。傍聴していて一瞬理解に苦しむところがあったが、堪えて目を閉じる。
「ご不快な思いをお掛けした点についてはお詫び致します。車内の空調に関してはどうしても個人差の問題となりますし、私自身お客様と同じ思いをすることがあります。これからお客様のご意見も踏まえつつ車内温度について再度見直しを行いますので、ご容赦いただけますでしょうか?」
船坂の返答は、単にお詫びだけでなく苦情の内容に同意し、今後の対処を明確に示す内容だった。運転操縦と定時運行だけに集中してお客様と直接向き合う機会が少ない運転士の私には、この回答は一瞬で思いつくものではない。女性もようやく納得したのか、「今度は頼むで!」というような捨て台詞にも感じ取れる言葉を残して、係員のいない駅の改札へと歩いて行った。

「側灯、滅。三田1分55秒延着……」
結局、日下部駅での苦情で発生した遅延を取り戻すことなく、終点の三田駅には約2分遅れて到着した。未明から降り続けていた雨は止んだものの、未だに空は薄暗い。ただでさえ梅雨時で気分がスッキリしないのに、理不尽な苦情によって定時運行を崩されては運転士として怒りに堪えないところがある。有間温泉駅に折り返す前段として反対側の乗務員室へ向かうが、先程の苦情を受けて客室の目立たない箇所にある温度計をチェックしてみた。空調設定温度は規則通りの26度を示していたが、その割には肌寒いようにも感じた。さすがに冬服では暑すぎ、かといって夏服では冷えてしまうので、この時期は長袖のシャツにネクタイを着用している。それでも寒さが勝ることに違和感を覚えていると、すぐ脇の車両間貫通路を船坂が通り抜けてきた。
「先輩、もしかして寒いですか?」
「この電車、出力の高いクーラーを4台も載せてるし、温度は規定どおりとしても他のよりは寒く感じるんかもしれへんね」
「あれから車内巡回を繰り返したんですけど、俺も寒かったんで操作盤のツマミ回したんですよ。でも全く変わらなくて、もしかして故障してるんかと……」
「……これ以上乱されても敵わんし、早めに対処しとこか」
「え?」

有間方の乗務員室にある空調機操作盤には電源ランプと、冷房・暖房・送風・停止の切り替えスイッチ、車内温度計の表示画面に加えて送風の強弱を調節できるツマミがあるのみだ。乙倉は操作盤の停止スイッチを投入すると、操作盤の端にある鍵穴に忍錠を挿れて回した。表示器やスイッチ類のあるフタを開けると、内部に数多の機器箱やケーブル配線が露わになる。
「勝手に開けて大丈夫なんですか!? 電気工事は検車に任せましょうよ!」
「そんな大げさなもんとちゃうよ、表に無いスイッチを押すだけ」
乙倉は操作盤内部から上を向いたトグルスイッチを見つけると、おもむろにそれを下げた。数秒間すると元通りに上げて、操作盤のフタを閉じると再び空調の電源を入れた。数分間してから客室の送風口に手を近づけ、冷風の具合を確認する。
「あ、なんかさっきよりはマシになってます」
手袋を外した素手の甲を送風口に当てた船坂は、背後に佇む乙倉に質問した。
「何のスイッチだったんですかアレ」
「リセットスイッチ。車両床下の機器箱にもあるけど、通電中に弄るのもアレやしここから遠隔で戻したんよ。故障やったら取り敢えず再起動すれば直るやろ思うて」
「よく機器のリセット扱いなんて知ってますね」
「運転士の講習を受ける前、1年ぐらい検車係をやっててんよ。『職人』には遠く及ばへんけど、車両の構造を理解するには十分やった。汗だくで、油まみれになるんは嫌やったけど……」
感心しながら手袋を嵌め直す船坂に対して、もうひとつ付け加えた。
「機械を知る時間はあったけど、その分お客さんと接する時間は減った。だから今でも接客は少し怖いし、さっきみたいな苦情なんかに出会うともう、どうすればええんか……」
「そういう時は車掌に頼ればいいんです、お客の相手をするのが車掌の務めですから」
「……にしてもさっきの対応は完璧やったね。ホンマに助かったわ」
「お詫び、同意、ご指摘へのお礼。この三つを意識すれば大抵は追い返せますよ」
運転士は安全運行のプロとされるが、車掌はこれに接客が加わる。旅客の乗降を気にかけてドアを扱い、運転士へ発車の許可を出して、走行中は車内巡回で旅客の案内と車内の秩序維持に務める。ドアは運転士で扱うことも可能だし、車掌が発車合図を出すのも欠乗(車掌をホームに置いたまま列車を出発させてしまうこと)を防ぐ目的があるし、車内巡回も費用対効果としては釣り合わない部分もある。それでも車掌なくして列車を動かそうと思えば、機械も人も相当な負荷や負担を強いられることになる。

午後12時36分。JR福知山線からの乗り換え客も続々と車内に入り、発車時刻である40分も近い。雨粒や埃で汚れた眼鏡のレンズを拭いてから掛け直すと、船坂は乗務カバンを肩に担いで後部乗務員室へ向かうところだった。苦情対応の件で改めてお礼を言うと、明朗な返答が来た。
「こちらこそ色々とありがとうございます。職責違いますけど、お互い助け合いましょう!」
朝から天気も気分も沈んでいたが、船坂の激励によって一気に心が晴れ晴れしくなった。
「うん、よろしく」
お互いに制帽を被っていたので敬礼で挨拶を済ませ、少し急ぎ足でそれぞれの定位置につく。
運転台の横からドアが閉まったことを確認し、計器の並ぶ運転台に視線を配る。戸閉表示灯が点灯し、出発可能を知らせる電鈴が二回鳴り響いた。
「戸閉ー、点。合図よーし。しゅっぱーつ、進行ー!」
まとわりついた鬱陶しさを振り払うように、いつもより明朗に喚呼する。
年齢ひとつ下の後輩には教えることの方が多いが、今日は頼りになる場面の方が多く感じた。
安全で安定した輸送サービスを紡ぐには、教えるばかりではなく、彼の言う「助け合い」でお互いを支えつつ技量を向上させることが不可欠であることを、身をもって学んだ。

雨上がりの晴れ間からは、初夏の訪れを感じさせる陽光が田園に降り注いでいる。



(2016年6月26日 記)