昼下がりの鉄子


「2番線場内、注意! 有間温泉、2両停車」
起点の三田駅を出発してからおおよそ20分。途中7つの駅で乗降扱いを行ってきた第1201列車は、終点の有間温泉駅に入駅する場面を迎える。仮眠の無い日勤勤務の真っ只中にある運転士、乙倉は分岐器より先にあるプラットホームと線路終端である車止めを視認すると、起立して線路脇の場内信号機を指さして喚呼を行った。時速40キロ以下で入駅し、予めきつめに掛けたブレーキを徐々に弱める。自動車の運転では止まる瞬間にブレーキを緩めて停止時のショックを和らげる方法を教習所で習うと思うが、鉄道においてもそのようなテクニックがある。
乙倉は線路の終端を示す車止標識より手前にある停止位置目標を認めると、刻一刻と迫る到着時刻を意識しながらも、停止位置ピッタリに止まれるようにブレーキのタイミングを見計らう。段数が「1」のまま列車は完全に停止し、運転台にあるクオーツ時計の秒針は到着時刻より数秒だけ経過していた。運転士が安全の次に遵守すべき事項である定時運行を実現した瞬間だ。
「滅、定時!」
列車が停止すると当然ドアが開くが、この時運転台の戸閉表示灯が消灯する。これを「滅」と喚呼して、反対にドアが閉まると点灯するので「点」となる。たとえ僅かな速度でも列車が動いた状態でドアを動作させてはならないので、列車の停止ならびに起動の際は大きな確認ポイントである。

 

点呼を終えると、次に乗務する列車の出発時間まで小一時間ほどの昼休憩となる。駅から徒歩数分のコンビニで天ぷらそば、飲み物としてサイダーを購入した後それを駅の休憩室に持ち込んで昼食にする。
大正時代から昭和初期にかけて詩集「春と修羅」や数多くの童話を創作した宮沢賢治は、農学校の教師をしていた時期に行きつけの蕎麦屋「やぶ屋」で天ぷらそばとサイダーの組み合わせを好んでいたという。小学校の時に「注文の多い料理店」を学習し、その後作者である賢治について調べた乙倉は「やぶ屋」のエピソードが頭に焼き付いて離れず、今でも適当な昼食が思いつかない時にはこの組み合わせを真似している。一見珍妙な組み合わせで、実際に食べても絶賛するほどの自信は持てないが、有名な作家と同じ食べ方を堪能していると思えば意外に箸は進む。お湯を入れれば出来上がるカップそばと、お腹を満たす作用のある炭酸飲料との組み合わせは、休憩時間が比較的少ない時でも有効で、何よりお財布に優しいので定番の仕事メシとなりつつある。
空になったカップそばの容器とペットボトルを処分すると、お手洗いを済ませてから鏡の前で身だしなみを再度整えた後、点呼室で次なる乗務列車の点呼を受けた。ホームではちょうど電車がそろりそろりと入駅しており、この折り返しである第1306列車が私の乗務となる。車種は今年3月より営業運転を開始した最新鋭の100形で、利用者はもちろん乗務員である私たちも絶大な注目と期待を寄せる車両だ。車輪から屋根上のケーブルまで全てが真新しい電車の編成を見通すと、数人が電車を撮影していた。就役から間もない時期で少人数ながらも注目を集める場面は多くあり、中には点字ブロックの外にまでカメラを持つ手を伸ばして撮影する者もいるので少々危なっかしい。平日の昼間ということもあり、子ども連れの親子と年配の人がよく見受けられる。だが私が先頭部に到達する頃には撮り終えたのか駅舎の方へ向かい、若い小柄な女性が一人だけ撮り続けていた。

 

私が所定の目視確認をすべく前方へ足を運ぶと彼女はすぐに私を避けるように離れ、乗務員室の鍵を取り出すと撮影を再開する。車両の顔だけではなく、連結器や排障器、行先表示器まで入念かつ執拗に撮っているのは「その道」に関して素人の私でも読み取れた。時間と身なりを考えると、大学生かオフ期間中のOL辺りだろうか。私がスタフとクオーツ時計をセットして放送を行い終えた頃になるとカバンからスマートフォンを取り出し、こちらに背を向けて「自撮り」を始めた。なかなか良いアングルが見つからないのか、次第に小さな背がこちら側に近づいてきた。このままでは女性が線路に転落してしまう。危険を察知し、本能的とも言える速さで女性の元へ向かい声をかけた。
「すみませんお客様、それ以上電車に近づくと転落の恐れがありますので……」
そう言いかけたところ、女性はハッとなったように表情を変えて「ごめんなさい!」と少しだけ頭を下げた。危険な行為ではあるが悪気があってのことでないし、これ以上咎める理由は無い。
「よろしければ、お撮りしましょうか?」と提案すると、女性の表情はパアッと明るくなり「いいんですか!? お願いします!」とスマートフォンを差し出した。画面の中に女性と100形電車が収まると、私はふとした思いつきでシャッターを押さずにスマートフォンを取り下げ、女性に渡した。「もう撮れたんですか?」と訊く彼女に答えもせず、私は制帽をとって「よければコレも」と差し出した。驚愕と歓喜が入り混じり恍惚な表情に満ちた彼女は制帽を受け取ったが、被るしぐさが妙に手馴れていることには少々の疑問を生じた。鉄道好きなら何度も真似たりするのだろうか。
「では撮りますね。はい、チーズ……もう一枚いきます、はい、チーズ……」
縦と横の両方で一枚づつ撮影し、スマートフォンと制帽を交換した。彼女は何度かお礼を言うと、自分が関西の私鉄で駅員をしていること、今日は休暇で100形を目当てに乗りに来たことを話してくれた。どうりで制帽の着脱に慣れている訳で、出発時間まで色々と話をした。これから温泉街へ向かうとのことで、金湯までの道順などをガイドマップを用いて案内した。

出発信号機が青に切り替わり、発車放送と閉扉が終わると発車を促すベルが鳴った。
「戸閉、点。合図よし、出発進行!」
ノッチを僅かに投入する。100形は擬音で表すと「ヒュイーン」という起動音が出だしにあるが、ヒュの音のところで私は彼女の方へ振り向いて軽く会釈をした。それに応えるように彼女も笑顔を見せ、お互いに「お疲れ様です」の言葉を交換して別れた。
有間市駅で対向列車とすれ違う際、彼女が携えていた本務機であろうカメラで撮影をしていない事に気づいた。おそらく彼女も今頃、温泉に浸かりながら同じようなことを思い出していると思う。
「また来てくれるやろか?」

平日の穏やかな昼下り。私は彼女との再会に微かな期待を抱きながら、再び電車を起動させた。



(2016年5月22日 記)